表紙 前文 琉球国紀:原文 琉球国紀:現代語訳 15世紀の琉球語
琉球国紀
国王の代々の順序
国王は世襲である。1390年、国王・察度(さっと)が遣使(つかい)して来朝(朝鮮を訪れること)する。琉球国中山王(りゅうきゅうこくちゅうざんおう)と称する。これより年ごとに遣使する。その世子(せいし)・武寧(ぶねい)がまた土地の産物を献上する。1409年、その孫・思紹(ししょう)が遣使する。琉球国中山王と称する。その書の略に言う。「先祖王・察度(さっと)および先父王・武寧(ぶねい)が相次いで逝去する。そして、それぞれの城が不和となり、年を連ねて戦(いくさ)があり、明と疎遠になる。今度、大明皇帝の庇護を受け、王の爵位に封ぜられる。」1418年、また、遣使して、琉球国中山王二男勝連按司(かつれんあんじ)と称する。その書の略に言う。「私の兄は今年逝去して、私が初めて使者となる。」1431年、琉球国中山王・尚巴志(しょうはし)と称して遣使する。1453年、琉球国中山王・尚金福(しょうきんぷく)と称して遣使する。1455年、琉球国王・尚泰久(しょうたいきゅう)と称して遣使する。1458年、琉球国王と称して遣使する。1459年、また、尚泰久(しょうたいきゅう)と称して遣使する。1461年、遣使して、琉球国王・尚徳(しょうとく)と称する。1466年、また、尚徳(しょうとく)と称して遣使する。1471年、国王の使い・自端西堂(じたんせいどう)が来朝する。自端(じたん)が言う。「尚巴志(しょうはし)より前のことはよく知らない。尚(しょう)は姓、巴志(はし)は号、名は、億載(おくさい)である。尚金福(しょうきんぷく)の名は、金皇聖(きんこうせい)、尚泰久(しょうたいきゅう)の名は、真物(まもの:まむん)、尚徳(しょうとく)の名は、大家(おおや:うふやあ)である。兄弟はいない。今の王の名は、中和(ちゅうわ)、まだ号はない。年は十六である。赤嶺殿の長女を娶(めと)る。弟の名は、於思(うみい)で歳は十三歳である。次弟の名は截渓(せつけい)で、十歳である。国王の住んでいる所は、中山(ちゅうざん)という。だから、中山王(ちゅうざんおう)と称する。」察度(さっと)が始めて遣使してから相次いで絶えることがない。地方の産物を献上することはとてもひかえている。時には、直接、琉球国人を遣わし、時には、日本と貿易をしているので日本国人を遣いとしたりする。その文書は、朝鮮の、箋(せん)、あるいは、咨(し)、あるいは、致書(ちしょ)などに相当する。その称名(しょうめい)・姓名(せいめい)もまた定まったものではない。琉球は我が国から最も遠く、そのくわしいことを究めるのはむずかしい。とりあえず、朝貢および国王の名を記し、以後の世代に託す。
※第一尚氏初代の国王・尚思紹は、武寧王の孫ではない。尚思紹は武寧王を滅ぼして中山王となった。明から中山王として認めてもらうために孫と称したのである。同じことは、第二尚氏でもあった。第二尚氏の初代国王・尚円は、クーデターによって国王となった。明へは、第一尚氏最期の国王・尚徳の子供と称したのである。尚円は、尚徳よりもかなりの年上である。朝鮮への国王・尚円の使い自端西堂は、その釈明のためのようである。尚徳王の子供として届けているために、歳を十六歳としなければつじつまがあわないのである。尚円には弟が一人しかいない。クーデターによって前の国王を追い出したとは言えないようなのである。つまりは完全なフィクションなのである。このような虚偽の報告が通用してしまうのが当時の世界情勢だったようである。琉球王国とはこのような虚構の上に作られた世界だったのである。
国の都
国は南海の中にある。南北は長くて東西は短い。都に石の城がある。諸島が星のように連なる。治める所は全部で36島である。土地の産物の硫黄(いおう)は、掘ったあと一年がたつとまた坑(あな)がいっぱいになる。いくら取っても無限である。毎年、中国に遣使(つかい)して硫黄六万斤と馬44匹を貢物(みつぎもの)とする。
梁回(りょうかい) ※梁回は、使節の中の人名。
1430年、遣使(つかい)が来朝する。ある書に「琉球国長史梁回」とある。
李金玉(りきんぎょく)
1468年、遣使(つかい)が来朝する。ある書に「琉球国総守将李金玉」とある。
※沖縄の人は他国においては、その国の人たちのような名前を用いたようである。唐名(中国風の名前)だけではなく、朝鮮風の名前というのも存在したという例である。
等悶意(とうもんい)
1469年、遣使(つかい)が来朝する。ある書に「琉球国中平田大島平州守等悶意」とある。
※「等」は「〜など」の意味で、おそらく人名ではないだろう。名前はたんに「悶意」だと思う。「悶意」のペキン音は、「menyi」であり、琉球語の「思(うみ)い」だと推測する。
国の風俗
土地は狭いが人は多い。海船での行商を仕事にしている。西は南蛮と中国に通じて、東は日本と我が国に通じる。日本と南蛮の商船は国都(※首里)の港に集まる。国人は、店を浜辺に置いて、市をなしている。〇国王は楼(ろう)に住む。他国の使いをもてなすたびに、仮の楼を作って応接する。中国および我が国の国書に対しては旗と旗矛(はたほこ)を持って迎える。〇左右に高官が二人いて王命を伝える。また、五軍統制府・議政司・六曹(りくそう)がある。〇土地は常に暖かくて霜(しも)と雪(ゆき)がない。〇水田は一年に二度収穫する。十一月ごとに種を蒔(ま)き、三月に秧(なえ)を移し、六月に収穫する。そしてまた種を蒔(ま)き、七月に秧(なえ)を移し、十月にまた収穫する。〇男女の衣服は日本とだいたい同じである。
道路の里数
我が国の慶尚道(けいしょうどう)東来県(とうらいけん)の富山浦(ふさんぽ)[現在の韓国・釜山(プサン)]から対馬島の豊崎まで48里。〇豊崎から船越浦(長崎県下県郡美津島町)まで19里。〇船越から壱岐の島の風本浦(長崎県壱岐郡勝本町)まで48里。〇風本から本居浦(長崎県壱岐郡郷の浦町)まで5里。〇本居浦から肥前の上松浦(佐賀県松浦郡の北部)まで13里。〇上松浦から口之永良部まで165里。〇口之永良部から奄美大島まで145里。〇奄美大島から徳之島まで30里。〇徳之島から与論島まで55里。〇与論島から琉球国首里まで15里。〇全部で543里。我が国(朝鮮)の里数では5430里である。
附録2
琉球国
1、領土は東西は7、8日程、南北は12、3日程である。
1、水田は一年に二度収穫する。正月に種を播き、五月に刈り取り、六月に種を播き、十月に刈り取る。陸田は一年に一度収穫する。
1、男子は貴賤をとわずに髪を結い、髻(もとどり)は右に作る。国王は常に紅巾(こうきん)で頭を包み、職人は雑色巾(ざっしききん)を用い、庶民は白巾を用いる。着物はみんな開いた袖である。中国からの使者が来れば、国王は、烏紗帽(うさぼう)・紅袍(こうほう)・玉帯(ぎょくたい)、群臣は官位に従って、それぞれその服を着る。みんな中国の制度にならっている。
1、一日、十五日に出勤する群臣には必ず宴を催す。
1、中国人で帰住する者は三十余家である。一つの町を作ってそこに居住する。
1、三司官がある。大臣のことである。政治に関しては大小をとわずこれが行なう。琉球国の人でなければこの職に就くことはできない。
1、久米村には、長史(ちょうす)と正議大夫(せいぎたいふ)という役職がある。
1、王府の役人には職田(しきでん)がある。また商業船の品物から税金をとって給料の一部にする。
1、国王の葬儀は、金銀で棺を飾り、石をくりぬいて槨(かく)を作る。埋葬はしない。屋家を作って棺を置く。十日余り、親族と妃(きさき)と嬪(ひめ)が集まって死を哭(いた)み、棺を開いてことごとく肌と肉を取り去ってこれを水に流して骨だけを棺に戻す。庶民の葬儀も同じである。但し、石槨(せきかく)はない。
1、父母の葬儀は、士族は百日、庶民は五十日である。食肉・飲酒はしない。
1、婦人は、子供がなくて夫が死ねば、自分で首をはねて殉死する者が十人に七、八人はいる。国王もこれを禁止することができない。
1、刑罰は、流刑、斬刑がある。笞(むち)打ちの刑はない。
1、祭場檀がある。祈禱の時にはここで祭る。他国に使いに行く者はここに参って香をたき、香の灰をとって呑んで、誓いを立てて、「我が国のことは他国には口外しない」などと言って、それから出発する。
1、琉球の東南に水路7、8日程で台湾がある。統治するものがいない。人はみな長身で衣裳は定まったものがない。人が死ねば親族が集まって、その肉を分けて食べる。その図解骨を金で塗って飲食の器に使う。
※子供のない婦人が夫をなくした場合、あとの生活を見るものがなく、たぶんほとんど自殺のようなものであったのだろう。子供がいる場合はまわりがなんとか生活の扶助をおこなったのであろう。
※国王の埋葬方法は、洗骨(せんこつ)であり、他の士族・庶民も同じである。通訳があまりよくなかったのか、上の説明ではいかにも肉が多数付いたままのような印象をうける。実際は、年月が経ってほとんどきれいな白骨の状態であり、文字通り洗うだけですむのである。
※台湾には食人の風習はなかったようである。ポリネシアの一部には食人の風習があり、ヨーロッパの宣教師が多数被害にあったようである。申叔舟は台湾までは行かなかったようであり、台湾の記述はただの聞き書きのようである。